言語化の試行(4/19)

  • 岐阜駅本の市で本を買ったらもらえたON READINGのフリーペーパーを読んだ。真剣に誇りを持って何かに取り組むってすごいことだなと思う。そして私は真剣に誇りを持って何かに取り組むということをしていないように思う。ついでに言えば以前に情熱大陸のツダケン回を見た時に、自分は目標持ってひたむきに努力するってのをずっとやってないなと思った。
  • 自分として、これをこういうふうにこれだけやってれば努力してるってことになる(今自分は努力していると認める)ラインって、随分と高くにあるかもしれなくて、たとえば勉強してないと人権ないみたいに感じていた高校の時は勉強から逃げてると思ってた(し実際数学や物理や歴史から逃げまくってた)けど、ニートからの無職やってる腑抜けの今の私からすればあの頃は充分に毎日よくやってたと思う。
  • 今「ニートからの無職やってる腑抜け」と書いて、自分が努力してるって感じはしていない。強いて言えばできるだけ穏やかに生きのびようとはしている。もろもろの力に頼ることによって今のところはたまたま楽に生活できている。ニートとしての休養中も、通所して就職に向けた訓練をしている今も、(その辺のまっとうにまっすぐに人生やってきてまともなつもりの人たちからすれば、たとえば父などは、自分で働いてお金を稼ごうとしないのは「甘え」だと言い、実際私は甘やかされた人生を生きてきていて、それはそれとして、)その時々に自分なりになんとか生きようとしてきているのだということは、認めなくてはならないのだと思う。となると、世間一般に努力とみなされるものであったり、私が自分で高いラインに設定している努力であったり、そういうものとは違ったものであっても、たとえばもしそれができていてあたりまえとされることや、ただの遊びや娯楽消費や甘えと分類されるものだとしても、自分は今努力している、という認識にしてみるのがよいか。
  • 恵まれた(・甘やかされた)環境で生きてきていることについて罪悪感のようなものや刺されても仕方ないという考えを抱かなくもないのだが、こんなこと思ってもしかたない気もするし、小さな幸せを意識して楽しみながら慎ましく自立した生活をしていくためにはどうしたらよいかを考えるべきな気がする。
  • 焦ってもしかたないし無理なくできることからやっていく、だけだと怠惰に流れるし、かといって、急いで少しは無理もしてできないことをできるようにしていく、となるとヤダーッ無理ーッとなるし、ほんとやる気なくてわがままだな。どうしてこんなふうに育ってしまったんだ?いや、人間らしいのか?これも体力や関心の問題か?筋肉つけて興味関心を広げるように努力すればよい?
  • 少し前に世界文学全集のクンデラ『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。解説を読んでみるが、難しい。「キッチュの王国」、実存、うーん。クンデラの言ってるキッチュも反キッチュもよくわかんない、わかりたい気はする。え、性愛の場面に笑うところあったかな。ユーモアとアイロニーがどうも私にはわからなかったみたいだ。
  • 『世界をきちんとあじわうための本』を読み始めたらレヴィナスが引かれているテキストがあり、実存……となる。哲学コースに迷い込んで退学したが、哲学コースの方々がおっしゃっていた実存の森というものをやはり探険してみるべきなのだろうか。
  • 『世界をきちんとあじわうための本』読了。のこりもの、あいだにあるもの、関心……。関心が世界の限界を決めるというような話、どうすれば、関心を広げたり深めたりを自然にできるようになるんですかね。
  • 辻村深月かがみの孤城』を読んだ。読んでもスバルくんのことは結局よくわからなかった。生育環境に比してなんなんだ君の発揮する城のみんなに対してのモラルの高さは。
  • 『カラオケ行こ!』、『かがみの孤城』、と、映画を見て原作を読むということをしてみて、映画にするにあたっての翻案という仕事の大きさを感じた。
  • 蟹の親子『脳のお休み』を読んだ。重くて読んでいてこわかった。想像力についての考えがよかった。東京の人混みを見て私ひとりいなくてもいいって思っちゃうの意外とあるあるなのかな。いやこんなことはどうでもいいか。内容が重い本を読みたい人、子供を産みたくない人、などにおすすめ。脳を休ませたい人にはあまりおすすめできないかも。